日本百名城-2 人吉城

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歌舞伎の中に次のようなフレーズがある。

【落ち行く先は九州相良】

人吉が僻地として扱われていた証である。

【人吉】

多くの者は聞いたことのないこの地名は、熊本南部、鹿児島や宮崎とも隣接する盆地である

熊本からは電車で2時間、休日にはSL人吉号も走る

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日本3大急流の球磨川沿いを走る。

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周囲が複雑な地名に囲まれた要塞、まさに秘境といった言葉がぴったりである。

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ここは静岡地方にいた相良氏が、源頼朝の名を受け地頭として赴任。

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2~5万石の小大名ながら、卓抜とした外交能力で明治維新まで800年間施政した数少ない大名である。

しかも戦国初期には、八代、水俣、天草まで領土を広げ、内乱が続く薩摩にまで攻め入ったりもしている。

しかし内乱を収めた島津に1581年に降伏。

豊臣秀吉の九州遠征には善戦したが、圧倒的な兵力の前に降伏。

人吉藩の窮状を訴え、所領は安堵。関ヶ原の戦いでは、当初は西軍につくが、裏切り徳川方につき、江戸時代も所領安堵に成功している

人吉城は前方に球磨川

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後方は山に囲まれた平山城。

人吉自体が秘境のため1526年に敵に包囲されたが、撃退している。

ただし1862年に寅助火事と呼ばれる大火事があり、城は全焼した。

現在は残念ながら、石垣を残すのみ

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しかし目を閉じると、鎌倉時代から800年、ここで相良氏が治世した風景が浮かんでくる。

無残な天守閣後

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城の内部には、船着場も作られ、物資の運搬が大分楽になった。

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江戸時代こそ、交通、物流の幹線として参勤交代などにも利用されていたが、それ以前は巨石が多く船など通れなかった。

それを一人の人間が私財を投げうって、難工事3年の末、1665年に巨石取り除き達成。

球磨地方の発展に大きく貢献した。彼の名は林正親、銅像が人吉神社にある

目先の利益でなく、100年、200年先の未来のため工事する。

素晴らしい人物ではないか

もし人吉に来たら、人吉城以外に行かなくてはならないのは国宝の青井阿蘇神社

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なんて見事な山門、美しすぎる

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806年からの歴史をもつ、この神社は現在17世紀の本殿がそのまま、残っているので、是非行ってほしい

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そして最後に、人吉で食べると行ったらうなぎ。

ここは今では数少ない上質の国産うなぎが味わえる。

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創業100年の歴史を持つ上州屋は、お昼時は大変混み合い、相席になったりするが、是非食べてほしい。

熊本と行ったら、熊本城、阿蘇山、黒川温泉や山鹿の城下町も捨てがたいが、人吉も是非ご検討あれ

熊本県民が課外授業で行っているようなので、関東でいう鎌倉のようなものである。

日本百名城-1 熊本城

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日本三大名城の一つである熊本城

城好きの人間であれば、誰もが1度は行きたいところ

周囲5km、東京ドーム22個分の敷地が守られるように、当時は幾重にも堀や石垣が張り巡らされ,河川の流れまで変えさせた。

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この熊本城を作ったのが、城作り名人、豊臣秀吉子飼いの武将加藤清正

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黒田如水の策略によって、ほとんど大規模な戦いをせずに九州を平定した秀吉だったが、肥後の豪族達は反逆を繰り返す。

佐々成政はその責任を取り、切腹させられた。

そう、火の国と言われる熊本人は我が強く、素直に服従などはしない。

なかなか統治が難しい。誰であれば、任せられるのか、そう考えていた秀吉に加藤清正は言った。

【肥後の国を武力で服従させようとしても、無駄だ。慈悲の心を持って接すれば、自ずと服従するだろう】

その言葉に秀吉は感嘆し、肥後の国の半分19万石を加藤清正に任せた。

加藤清正は反乱の農民を咎めずに、許し、目安箱を置き、理不尽なことは全て直接自分の耳に入れるようにした。

そして大規模な治水工事に乗り出す。

加藤清正は槍一本で虎と戦う豪傑であるが、農業、土木分野にも知識があり、まずは大規模な治水事業により熊本の民が豊になるように努力をした。

そのような清正の努力もあり、肥後の豪族、農民達は清正を受け入れ始める

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そして大希望な城、熊本城を作り出す。

天下が収まった後なのに、なぜこんな城を作ったのか

南の島津の備えか・・・

何かあった時に豊臣秀頼を自分の城で守るために作ったのであろうか

現在も当時のまま残っている宇土櫓。櫓も大小あわせて60程あったらしい。

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そして清正の城といえば、この武者返し

石垣が途中から垂直になっていることで、ハシゴをつかっても、最上段まで来れないようにしている

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そして枡形

通路門を絶対に直線には作らず、必ず曲がるようにさせる。

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敵の勢いを止めることと、上の三方向から狙い打ちが可能になる。

当時の熊本城は外掘りから天守閣に行くまでには、5回の枡形を通る必要があったという。

軍事評論家から見ても、あきらかに【やりすぎ】ぐらいな城だったらしい。

熊本城が要塞の本領を発揮したのは270年後の西南戦争。

大砲を使った西郷軍の猛攻に50日以上耐えて、援軍を待った。

鹿児島に退却する西郷隆盛は言った。

【政府軍に負けたのではない。清正公に負けたのだ】

そして井戸

朝鮮出兵時に、籠城で苦労した清正は城内に井戸をたくさん作った。

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阿蘇の地下水が流れ、水に困らない熊本ならではとも言える。

食料にも、当然気を使い、イチョウの多くの木を植えた
→熊本城は別名銀杏城とも言われている。

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畳や壁にも、かんぴょうや干し芋などを入れ、来るべき戦に備えていたという。

ここの王君の間は、大阪が滅んだ時に豊臣秀頼を救出して、この部屋に住んで頂こうとしたとされる。

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この部屋に行くには、地下の通路を通り、何十の部屋を通って、やった辿りつけるようになっていたという。

しかし、その願いは虚しく1611年加藤清正死去。

そして1615年に大阪夏の陣で、豊臣秀頼も自害。

加藤清正の夢は敗れ、その息子の代に肥後50万石は没収された。

しかし、その後の細川市は文化と教養備えた驕らない人物であり

【清正公の代わりに、肥後を治めさせていただきます】

という低姿勢な態度でのぞみ、熊本の発展を助けた。

天守閣から見える熊本の市街

今、大人気のクマモンも見える。

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もし、熊本に行ったら加藤清正が広めたという馬料理。

【けんぞう】の居酒屋で馬の内蔵料理を是非、食べてほしい。

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そして、まだ小腹が空いているようであれば、こむらきのラーメン。

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こちらも超~お勧め。

そして、最後にもし熊本城に二人以上で行けたなら、是非、試して頂きたいことがある、

前日までの予約が必要で、3000円必要なのだが

熊本城の本丸御殿の大御台所で、江戸時代に殿様が食べていたと思われる食事が食べられる。

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こちらは予約が二人様からになるので、いつも一人で行っている自分は予約できないが、自分もいつかは必ず食べてみたいと思っている、